沈黙の春




解剖学者で昆虫好きな養老孟子さんがこのようなことを言っていました。
昔は高速道路を走っていると窓ガラスに虫がバンバン当たってきて
すごく汚れていたのに、最近その汚れが少なくなってきたと思いませんか。
虫が減っていることには、気候以外にもいろいろな要因がありそうで、
相当深刻な問題だと感じています。1990年から2020年までの30年間で、
世界中で昆虫の8・9割が消えてしまったと言われています。

つまり生き物が増えなくなっている。
増えにくい環境を作ってしまっているのではないかと。
虫の変化を見ているだけでも、相当な危機が迫っていることがわかります。
虫がここまで減ると、次に鳥が減りますから。
虫が減ると植物が実らなくなって、山で食べられるものが少なくなります。

昆虫が居なくなると山の生態系が崩れるので動物たちの食糧が無くなる。
最近、鹿や熊が町中に出てきて餌を探すようになったのはそのこともある。
それをくい止めるのは犬を放し飼いにすることが一番効果であるが、
今の日本では無理な話であろう。
昔より地域住民のつながりが弱くなったから難しいのだと言います。
養老孟子

「センス・オブ・ワンダーを授けて」
海洋学者レイチェル・カーソンが残した言葉。

私たちは大人になって、つまらない人工的なものに
夢中になっていないだろうか。
自然の中に身を投じ、「センス・オブ・ワンダー」すなわち
「神秘さや不思議さに目を見張る感性」を子どもたちに授けることが、
今後、地球を守っていく私たちの使命だ。『沈黙の春』の著者
レイチェル・カーソンの最後のメッセージ。 

1962年に出版された名著『沈黙の春(Silent Spring)』は、
出版されるやいなや社会を揺り動かした。
なぜなら、急速な経済発展に伴い、農薬や化学物質が次々と開発されていた時代に、
その乱用の危険性を先駆的に鋭く訴える内容だったからだ。
こうした化学物質は、動植物の食物連鎖によって生体内に濃縮して蓄積され、
やがて環境汚染を引き起こす。

レイチェル・カーソンは、最後は人間まで汚染される
と警告したのだ。人間が自然の生態系を大きく壊しているという
彼女の告発は、当時のアメリカ大統領をも動かし、
のちに環境保護庁が設立されるきっかけとなった。
もし、この時、彼女が警鐘を鳴らさなかったら、
地球環境は今よりもさらに汚染が進んでいただろう。

「静かに水をたたえる池に石を投げこんだときのように
輪を描いてひろがってゆく毒の波。石を投げこんだ者はだれか。
死の連鎖をひき起こした者はだれなのか」

「沈黙の春』が出版された2年後、彼女は癌でこの世を去った。
56歳だった。亡くなった翌年に出版された彼女の遺作
『センス・オブ・ワンダー(The Sense of Wonder)』の中で
レイチェルは、幼い甥のロジャーとアメリカ・メイン州の森や海岸を
一緒に探索した美しき日々を回想している。

ある秋の夜、彼女は当時1歳8ヶ月だったロジャーと海に出かけ、
ゴーストクラブを探しに行く。ロジャーは海辺に轟く波の音、風の歌、
暗闇に怖がることなく、自然の力に包まれた世界を幼子らしい素直さで受け入れる。
雨の日は森へ散歩にいき、水を含んでキラキラ輝く苔や、色とりどりのキノコなど、
豊かな自然からの贈り物を子どもに届ける。
毎年、毎年、素晴らしい光景を幼い心に焼き付けていたロジャーは、
ある日レイチェルの膝の上で満月を眺めながら、「ここにきてよかった」と
言ったそうだ。

この本の中には、とりわけ<はっと>させられる一節がある。
「子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、
驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは
大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの
直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。

もしも、わたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける
力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない
『センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目をみはる感性』を
授けてほしいとたのむでしょう」

環境問題を考える日々の中で、今一度私たち大人も、森の声、海の声、
地球の声に耳を傾けてみてはどうだろう。
私たち大人は果たして、レイチェルのように自然の尊さに対する
子どもの純粋な感性を守ることができているだろうか。
彼女の言葉を胸に行動しよう。「地球の美しさについて深く思いをめぐらせる人は、
生命の終わりの瞬間まで生き生きとした精神力をたもちつづけることができるでしょう」

自然環境の劣化は天候だけの問題ではなく、殺虫剤や除草剤などをまき散らすから
多くの昆虫が殺されるわけです。そして昆虫と共に鳥たちもいなくなる。
自然に対する人間の畏敬が無くなり、山や森を開発することが
文明だと勘違いをしている。これは神をも畏れぬ冒涜である。
今や森だけではなく世界中の海も、生活汚染水、工場排水、原子力処理水、
海上開発などで汚れてしまっている。
最も深刻なのは家庭用ごみから出て来くるプラスティックや発泡スチロール類である。
釣り具から出る針や釣り糸も魚や亀に絡まって深刻な問題となっている。

悪事を行っている人間もそれを見逃している人間も同罪である。
一度壊れた大自然は二度と戻ることは無い。


子どもとは?




子どものことを調べようとしてこの文章を思い出した。
「小林秀雄全作品」の第24集に入っている「考えるという事」で
こう言っています。

宣長は、この考えるという言葉を、どう弁じたかを言って置く。 
彼の説によれば、「かんがふ」は、「かむかふ」の音便で、
「かれとこれとを、比較アヒムカへて思ひめぐらす意」と解する。
それなら、私が物を考える基本的な形では、「私」と「物」とが「あひむかふ」
という意になろう。「むかふ」の「む」は「身」であり、「かふ」は「交ふ」で
あると解していいなら、考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、
物と親身に交わる事だ。物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、
そういう経験をいう。『身交ふ』(むかう)

考えるとは、つきあうことなのです。ある対象を向こうへ離して、
こちらで 観察するのは考えることではない。対象と私とがある親密な
関係に入り込む、 それが考えることなのです。人間について考えるというのは、 
その人と交わることです。そう思ってみると、信ずることと考えることは、
ずいぶん近くなってきやしませんか。 

そして、身交う、交わるの達人が、私たちの親、わけても母親だという。
「子を見ること親に如(し)かず」というだろう。親は子どもと長いあいだ
親身につきあっているから、子どもについていちばんよく知っているのです。
この「知る」は、学問的に考えて知るのではない。本当の「知る」ということ、
「考える」ということは、そういうことなのです。

学問的に考えて知るとは、あるひとつの観点を設けて、その観点に立って
対象となるものを観察し、解釈する、そういう知り方である。
しかしこれでは、その観点のフレームの中に入ってくるものしか観察できない。
フレームのすぐ外に前代未聞の現象や物体が現れていてもそれをそうと見てとる
ことはできない。何であれ物事を本当に知るためには、観点など取り払わなければ
駄目なのである。

母親は子どもに対して、観点など持っていません。
彼女は科学的観点に立って、心理学的観点に立って、子どもの心理を
解釈などしていません。母親は、子どもをチラッと見たら、
何を考えているかわかるのです。そういう直観は、交わりからきている。
交わりが人間の直観力を養うのです。

純真無垢な心を持つ子どもたちは見るもの、聞くもの、触るものから
人間としての自覚を覚えていきます。
母親の顔を見て裸で抱かれて乳を飲みます。母乳から得られる免疫力によって
健康に育っていくのです。大声で泣きながらいつも飢えを訴えるのです。
そして見る世界から始まって自分の訴えを聞いてもらおうとして簡単な言葉を
覚えていきます。徐々に手足が自由に動かせるようになり、訴えが強くなります。
自分をもっと構ってくれとせがむのです。

それを見ている祖父母も両親もみんなで喜び笑うのです。
それに呼応して子供もおもいっきりの笑顔で返すのです。
不思議なことに母親が出産して、母親のものの考え方が変わり
性格も変わるのです。それが自然に身につく母性の始まりです。
親は子を育てるのですが子も親を育てるのです。

「子どもは真実を映し出す鏡である」
彼らにはおごりも、敵意も、偽善もない。もし思いやりに欠け、
嘘つきで乱暴な子どもがいたなら、罪はその子にあるのではなく、
両親や教師や社会にあるのです。
これは、インドの独立運動家であるガンジーの言葉です。

子どもは成長過程の中で色んな問題行動や間違ったことをします。
ですが、それは多くの場合、周りの大人のマネや大人の言動でそうせざるを
得なかったなど、周りの影響を受けてそうなっています。
このことを、大人としては真摯に受け止めなければいけません。
『人を変えたければまずは自分が変わる』という言葉がありますよね。
それは子育てにおいても全く一緒で、“子どもに変わってほしい”と思うのであれば、
まずは“親である私たちの行動や考え方を見直して改善していく”ことが大事です。

ご両親は今日も沢山子どもたちと触れ合ってください。

伊丹谷良介5月「うた」ライブ テーマは「こども」
2024年5月12日(日)18:30開場・19:00開演(終演21時予定)
恵比寿 BAR Voices

今回も新曲制作、ナレーション、カラオケ、スクリーン映像を含め
作業は200時間強を費やした。個人の作業量としては当に限界を超えている。
それでも何故やり続けるかと言うと、混迷の世の中にロックシンガーとして
やらなければならないという使命感からです。と伊丹谷は述べる。
ロックをサロン形式で一つのテーマに沿ってお客様と対話する。
そこから生まれる共通認識を、それぞれが
自分なりに考える機会を作るためにです。
本来のロックは市民活動の中にあると信じているのです。

5月のテーマは「こども」です。

V1序章・M1うた
V2こども・M2未来の華
V3自然とこども・M3覚悟の白富士
V4虫とこども・M4 wo ai ni
休憩(ぶきとまんもす)映像
V5ブッダとこども・M5愛と光に導かれて
V6生命とこども・M6 we are the one
V7科学とこども・M7愛の原子記号
V8母とこども・M8 MOTHER
アンコール「みんなでスティホーム」

母子で参加している方が数組いました。
M8の「MOTHER」では何人もの人が涙を流していました。
初めてロックライブに参加した人も
このようなライブがあるのですねと驚いていた。
応援してくれる人も増えて来た。
独自の主催でライブを開催したいとの申し込みもあった。
伊丹谷良介を見守る会「ガーデナー」も誕生した。

来月6月のテーマは「音楽」です。
奮ってご参加ください。何が起こるか分かりません。
私達は益々伊丹谷良介から目が馳せない。


一途な思い




私はこの「恩学」のブログの中で沢山の良き言葉と物語を紹介してきました。
良き言葉の出会いで人生が大きく変わり発奮することもしばしばあります。
私の座右の銘である道元禅師の言葉「愛語よく回天の力あり」を身をもって
実践できるように「ただひたすら」一途な思いで書き続けて500編になりました。

「ただひたすら」は相田みつを氏の代表的な言葉です。
こんごは毎日書き続けるのではなく書きたいときにだけ投稿をしたいと思います。
これからもただひたすらに「愛語」の人生を歩み続けて参りたいと思います。
よろしくお願いいたします。

道元禅師の言葉として有名な「只管打坐」は「しかんたざ」と
音読みになっています。「一心不乱」に坐り続けることの意ですが、
それが「仏行」に通じるという思考の連鎖があります。
「一寸坐れば一寸の仏」と言われるように、線香一寸分の時間を坐禅に
熱中している間は、仏になっているという表現が禅宗にはあります。

禅師の行仏・仏行の教えにもそういう理屈があります。
坐ったら坐っただけの時間は、我々は仏と寸分違わぬ仏そのものになっている
というのです。それ故、只管に坐禅することは喜んでなすべき行為です。
もちろん、禅師は坐禅をしているときだけというのではなく、
行住坐臥の全てにわたって、正法に従って生きることこそ仏行であり、
それを行じている修行者は行じている仏なのだとおしゃっています。
 
ところで、「ひたすら」な行為というものは集中力を要することも事実です。
だが、その行為が習慣化した場合のもう一つの効果があるように思えるのです。
それは集中力が持続しなくなった時の効果です。
これをしないと気分が悪くて一日調子がでないという程ではないのですが、
落ち着いた覚醒への準備時間は「イイ感じ」なのです。こういうことは毎日散歩や
ジョギングをする習慣のある方々には理解してもらえると思うのです。

私たちは、習慣は多くの場合、知らぬ間に(無意識に)
「身に付く」ものと考えます。
それはそうなのでしょうが、意識的行動が習慣化に影響を
与えることもあると思います。
私たちは「生活習慣」を自分で選び取ることができます。
食生活や健康管理に留まらず、読書習慣や学びの姿勢、神仏を畏敬する気持ちや
社会ルールを重んじる道徳的態度など、個人の生活習慣の形成には、
意識的行動が大きな要因になるところがあると思います。
ひたすらに何かをするというのは、最初は意識的な行動ですが、
それが習慣となってゆくというところに不思議な面白味があると考えます。

『正法眼蔵』の中に「諸悪莫作」(しょあくまくさ)の巻があります。
よく知られたことですが、この「七仏通誡偈」の初句の解釈は、
修行者の成熟度によって異なる解釈が成り立つと説かれています。
即ち、初心者には「諸悪を作(な)すな」という絶対的命令として
受けとられるのが当たり前で、それが正しい解釈だが、この命令に従っている
うちに、修行者自身が「諸悪を作(な)すことなし」という状態に
いつの間にかなっていて、そうした段階に到れば、この句の意味内容は
命令ではなく、その人の身心の実状の表示になっているというのです。
これは大変面白い考えですが、「只管打坐」の語の意味もそういう
動態的解釈が成り立つと考えられます。

つまり、この語も初歩の者には「一心不乱に坐禅すべし」という命令に
聞こえるのが自然なのですが、修行が進むにつれて「習い、性となる」で、
それは努力目標でもなく、「ひたむきに黙々と坐るのみで、それをただ愉(たの)
しむ風情」を表現している言句ということになるのではないでしょうか。
坐禅堂でひたすら坐ることが苦にならず、苦もなくできてしまう参加者の
皆さんは「只管打坐」の実践者と言えましょう。
 
また、こんな相田みつを氏の詩がありました。「ただ」という題名です。
ただひたすらにただひたすらに
ひたすらにただ坐るだけ
ただおがむだけただになれない人間のわたし
 
『人間だもの』の中では「花はただ咲く、ただひたすらに・・・」と
詠われています。また「泣」という題の詩には「ただひたすらに泣けばいい」
と詠っています。「ただひたすらに」のフレーズは相田氏の
お気に入りでありましょう。

相田氏の筆書きの詩は、行の一筋ごとに文字の大小があり、
そこにも思いが込められています。それを活字では充分に表現できませんが、
この詩の最後の二行だけは他の行よりも明らかに小さい文字になっていて、
そっと控えめに囁いているようでした。そこは作者自身の
ちょっと照れくさそうな告白の言葉に見えました。
 
さて、この詩は題名そのままに「ただ」という言葉がテーマです。
「ただ」とは「ありきたり」「ふつう」という意味があります。
また「ひたすら」の意味もありますから、こうなると「ただひたすら」という
言い方には重複があることになりますが、言葉の響きはとてもいいと思います。
ここでは普通に何の他意もなく、一心不乱に坐禅すること、拝むこと、
「ただそれだけということが難しいのだ」と言われている。

自然に掌を合わせて無心の刻(とき)を「ただひたすらに」拝んで過ごすのです。
四六時中こういう時間の中にいることはできないので、
そういう意味で相田氏の言うように、私たちは「ただになれない人間」なのですが、
ひたすらに何かをなす時間を忘れないでゆきたいものです。
(臨済宗円覚寺派管長横田南陵老師講和から一部抜粋)

この投稿が500回記念になりました。
私の心の師である横田南陵老師の道元の言葉と大好きな相田みつを氏の言葉で
しばしペンを置くことにします。

長い間ご愛読していただき感謝申し上げます。
2024年5月5日


真夜中のよもや話




自分と対話するには真夜中が良い。
周りの音が全て消える時間に宇宙と繋がれるから。
人間の身体は小さいが思考は無限に広がる大きさがある。
生きてきた年数とこれから生かされる年数を考えて深い闇をむかえる。
81億に近い人々が暮らすこの地球で祈りが一つになると見えない交信が始まる。
欧米の大国は神を恐れずに、自然を破壊し続ける、人を殺し続ける、
弱者から金銭を搾取続ける、このような蛮行が、いつまで続くのか想像が出来ない。
恐らく地球が破壊するまで同じ行為を続けるのであろう。

自然界の全てのものに命を吹き込む。
命を吹き込むのはどうすれば良いのだろうと考えていたら
次のような記事を見た。まったく脈絡が無いが半導体の話である。
思考が飛ぶ真夜中なので許して欲しい。

1980年代に、アメリカ人は日本のことをこう呼んでいたそうです。
「カシャ、カシャの国」これは、日本を馬鹿にした呼び方でした。
というのも、この言葉は、写真を撮るように技術を盗み、
なんでも丸写しにするという意味だったんです…
「日本人の仕事が丁寧すぎて、アメリカの半導体が全然売れない」

実は、1990年代になると、
日本は世界の半導体シェアが、脅威の49 %とされ、
世界の半分を占めていました。
なぜなら、アメリカの半導体大手の経営幹部が、
日本製とアメリカ製の半導体の性能を調査すると、
アメリカ製の半導体が、馬鹿にしていたチープな日本の半導体よりも、
4.5倍も故障率が高かったことがわかったんです。

それが判明してから、高くて故障ばかりしているアメリカ製の半導体は、
全く売れなくなってしまいました。
しかし…あなたもご存知の通り、
その後の「半導体戦争」に勝ったのはアメリカでした。
Apple、Google、マイクロソフト、半導体の力を駆使して、
世界のトップ企業に立ったのは全てアメリカ企業です。

そして、今では日本の世界における半導体シェアは、
49%から6%まで下がってしまいました…
では、いったいなぜ、そんなに半導体のシェアが下がってしまったのか?
1980年代に、日本とアメリカの間で何があったのか?
テレビや新聞は報じない、アメリカが日本に仕掛けた罠とは?
ライズアップジャパンより

私の推測では1985年のプラザ合意が頭に浮かぶ
ドル高を是正するため、1985年9月のG5(先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)
で発表された為替レートの安定化に関する合意のこと。
これにより協調して円高・ドル安に誘導されました。
この公の報道の裏にいつもディープステート(闇の政府)が思い浮かぶのです。
プラザ合意とは開催場所となったニューヨークのプラザホテルにちなんで
プラザ合意と呼ばれているのです。

ここで米国から強制的に仕掛けられて日本が半導体部門から撤退を
余儀なくされた。あくまでもこれは推測に過ぎないがほぼ間違いは無い。
熊本にできた台湾企業の半導体工場TSMCも半導体市場では二番手の
メモリー用の半導体製品である。一番手はロジカル系の精密半導体である。
現在は台湾系の企業が半導体シェアの大部分を占めている。
これも尊敬する大学の教授から聞いた話なのだが真意は確認していない。

見えないところまで気を使うのが日本人の職人の仕事なのです。
納得がいくまで改善と改良を加えて完成品を作り出すのです。
八百万の神が住む国では誰が見ていなくても神様は見ていると感じるのです。
手を抜くことはろくでなしの行為だと蔑むのです。

一神教しか信じない欧米では働くことは神への奉仕で、働く質までは
教えていないのです。だから個人主義が蔓延して意識が仕事に向かないのです。

岡潔(おかきよし)数学者
晩年の主張は超高次元の理想である「真善美」妙を大切にせよというもので、
「真には知、善には意、美には情」が対応し、それらを妙が統括し
智が対応すると述べた。
一方で日本民族は人類の中でもとりわけ情の民族であるため、
根本は情であるべきとも語った。

また日本民族は知が不得手であるため、西洋的なインスピレーションより
東洋的な情操・情緒を大切にすることで「分別智」と「無差別智」の
働きにより知を身につけるべきと提唱している。
さらに現代日本は自他弁別本能、理性主義、合理主義、物質主義、共産主義
などにより「汚染されている」と警鐘を鳴らし、これらを無明と位置づけ、
心の彩りを神代調に戻し生命の喜びを感じることで無限に捨てるべきと述べた。

日本の未来をいつも憂えていた。
漫画家の東海林さだおとの対談は最初断っていたが、実際には盛り上がった。
『ショージ君のにっぽん拝見』によると「最近の人間は頭頂葉を使わずに、
前頭葉ばかり使っています。自然科学的なものの考えの元は前頭葉にあります。
西洋人は前頭葉ばかり使ってきました。だから物質第一主義となったのです」

「最近の女性は、あれはいったいなんですか。性欲まる出しにして
尻ふりダンスなどしておる。まったく情操の世界から逸脱しておる。
仏教では親が子を生むのではなく、子が親を選ぶのだといいます。
ですから男女のまじわりは気高く行なわねばなりません」などといい、
特に“そして「頭頂葉」といわれるたびに頭のテッペンをバシッとたたかれる。

そのありさまは、ほんとにバシッという感じで、先生の腕時計が、そのたびに、
カチャカチャと音を立てるほどなのである”という位の興奮ぶりだった。

また画家の坂本繁二郎と対話したのを契機に、日本人の精神統一法について
思考を巡らせている。繁二郎が「馬」を描いていた若い頃は、「分別智」の雲が
途切れる瞬間「無差別智」の閃光が差し込むインスピレーションを主とする
純西洋型精神統一法を用いていたが、「月」を描くような年頃になってからは、
分別智の春雨と無差別智の明かりによる情操・情緒を主とする
日本的西洋型精神統一法を用いていたという。

岡自身も三つの大問題の解決にあたりインスピレーション型(花木型)
→梓弓型→情操・情緒型(大木型)と移行してゆき、この日本的西洋型精神統一法と
無差別智のみの禅型精神統一法を使い分けることで老後の日常生活を乗り切って
いたと語っている。

一方最晩年になると世間智については使ってはならないと語っているが、
西洋の理性はすべて「世間智型平等性智」であるため、
理性を使わなくてよい社会を建設しなければならないとも語っている。

そろそろ眠くなってきたのでこれで終わります。
真夜中のよもや話にお付き合いくださいましてありがとうございます。


伝説のスピーチ




1992年のブラジル、リオでの地球環境サミットでセヴァン・スズキという
日系四世の12歳の少女が「伝説のスピーチ」を行いました。
という紹介があって、どうしてもこの伝説のスピーチが知りたくなり、
YouTubeで見る事が出来ました。先ずは圧倒されます。
理路整然とした内容に、抑揚をつけた声でハッキリとスピーチしています。
原稿が素晴しい。自分の意志が十分に盛り込まれていて、この内容を誰に伝えたいのか
が明確に分かる。良く通る声である。舞台役者でも敵わない表現力である。

スピーチ中の彼女の表情からは、12歳という年齢と少女という甘えは微塵もない。
聞いている各国の政治家や研究者達が圧倒されてしまい唖然としている姿が
映し出されている。「どうやって直すかわからないものを、こわしつづけるのは
もうやめてください。」学校で、幼稚園でさえ、あなたがた大人は私たちに、
世のなかでどうふるまうかを教えてくれます。

「ならばなぜ、あなたがたは、私たちにするなということをしているのですか。」
あなたがたはいつも私たちを愛しているといいます。
「もしその言葉が本当なら、どうか、本当だということを行動でしめしてください。」
世界の代表者を相手に対等の立場で発言しているのです。
大人は言葉を組み立てるのが上手です。しかし組み立て過ぎて本質を失います。
子供は言葉の組み立てが未熟です。しかし飾りなき言葉だから胸を打つのです。
彼女は現在32歳、環境問題活動家として活躍を続けている。
正にフランス革命のジャンヌ・ダルクのようです。

「2009年エルサレム賞村上春樹氏の授賞式スピーチ」
わたくしは今日、小説家として、つまり嘘を紡ぐプロという立場でエルサレムに来ました。

という言葉から始まった。小説家の嘘は大きければ大きいほど評価される。
ましてやそれを非道徳的と批判の対象にはならない。

今回の授賞式出席にはかなりの数の日本人から出ないように言われた。
出席すれば不買運動を起こすと警告する人さえも居ました。
これらはもちろん、ガザ地区での戦闘の為でした。1000人以上の非武装の市民が
命を落としたのです。この賞を受賞するという事はエルサレムを支持している事に
繋がらないかとても心配をしたのですが、反対者があまりにも多いので敢えて
私は出席することにしたのです。

凄いですよね、小説家として大成功して巨万の富を得ても真実を探る為に敢えて
危険な場所に出向くのですから。それもガザ地区に攻撃を仕掛けているイスラエルの
首都エルサレムでのスピーチです。私が最も感動した言葉は、
「非常に個人的なメッセージです。私の心の壁に刻まれているものなのです。
それは「高くて、固い壁があり、それにぶっかって壊れる卵があるとしたら、
私は常に卵側に立つ」その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、
私は卵サイドに立ちます。」正直言ってこの言葉を聞いた時には驚きました。

エルサレムの中でこの様な発言をして大丈夫だろうかと心配しました。
「そして今我々の前には「システム」と言われる堅固な壁に直面している
壊れやすい卵なのです。勝利の希望がみえることがあるとしたら、私たち自身や
他者の独自性やかけがいのなさを、さらに魂を互いに交わらせることで得ることの
できる温かみを強く信じることから生じるものでなければならないでしょう。

「システム」がわれわれを食い物にすることは許してはなりません。」
この言葉は世界に同時に配信されたのです。「システム」という言葉を色々な言葉に
置き換えてみると、村上春樹が伝えようとした真意は分かるはずです。
この発言こそ私自身が感じる日本人の「誇り」なのです。
弱者救済の教育を受けた国民にしか出来ない行為なのです。
多勢に無勢で採決することを良しとしない国民だからです。
全ての弱者を排斥する考えが起これば世界の破滅の序章になります。
大切なのは遠くから発言するのではなく、互いの温もりが伝わる距離での発言です。

「2010年ハーバード大学白熱教室、マイケル・サンデル教授の講義」
「一人殺せば五人が助かる状況だったら、君ならその一人を殺すか」
豊かさが常に正しいという考え方を持つアメリカの、権威有る大学ハーバード大学での
講義である。その中から「今正義について考える」は大きな話題となった。
富の分配について富裕層から貧困層に再分配するのは弾圧だと
哲学者ロバート・ノージックは言う。

しかし国家が決定した事だから正しいという意見と、多数の人が選んだり
決めた事が全て正しいと判断するのは可笑しいと、反論する意見が出て来る。
それに対してサンデルは民主主義を否定するのかと追及してくる。
多くの教育者は自分の考えを押し付けようとする中で、サンデルの手法は
学生達と議題を共有し、意見を戦わしながら答えを見つけ出していく。

議論こそが民主主義の原点である事を教える。
まさにギリシャ時代の市民会議を彷彿させるのではないか。
目の前にアリストテレスやカント等の哲学者が出現するような緊張感漂う
授業風景である。ここで学生達はスピーチの重要性を学んでいく。
主張する事によって自分自身の「正義」を表明するのである。

日本人にとつて「正義」は道徳として当たり前に存在するが、他の国では
「正義」程、難しいものない。「正義」とは道徳的な生活に必要な判断力で、
誰もが必要とする能力だという。民族的、宗教的、国家的な考えからおこる
「正義」は多種多様な意味合いを持つ事になる。

世界の戦争のほとんどが宗教から来る「正義」の主張である事が許せない。
道徳を武器にして戦う事が非道徳な行為だと理解できないのが不思議である。
サンデル教授の授業に参加をしたいものである。
世の中には沢山の名スピーチがあります。スピーチから学ぶ事は多くあります。
それはこのような議論の機会に巡り合えて、討論を積み重ねることこそ
名スピーチの発言者となるのです。

これからも気付く限り数多くの名スピーチを紹介して行きたいと思います。
そして最後にこの言葉を刻みます。
「スピーチの上手な人は偉業を達する。偉業を達した人はスピーチが上手だ!」

読者の皆様もお時間があればもう一つの伝説のスピーチを調べてみてください。
「ハングリーであれ。愚か者であれ」スティーブ・ジョブス。
2005年3月米スタンフォード大学卒業式にて。
多くの人が感動して、今も語り継がれるスピーチです。

私もスピーチの達人になるためにこれからも精進するのみです。


文化・文明




文化・文明について勉強している友人の医師長岡美希がこう述べている。

時代を変えるためには組織化・勢力化が必要であることを
令和哲学の会で5週間集中した勉強の中で思い知った。
そして今、文化文明を勉強している中でたくさんのことを知る。
先の大戦を事象として捉えたならば、アメリカと日本の戦争という図式であるが、
事象の裏にある時代の流れという俯瞰した見方をした時に文明の流れがみえてくる。
文明とはまるで意志を持った精神体のようだ。

文明には物質文明、精神文明、社会文明という三つがあり、
その三つの均衡が取れている状態になろうと蠢いている。
その蠢きの中で人間は、均衡を取るための働きをしているのだろう。

力の概念の発見があってから産業革命が起こり、
世界は物質文明が優勢になっていった近代。そして起こった世界大戦。
精神文明を保つ日本と物質文明の象徴であるアメリカが衝突するのは、
文明の意志だったように思えてくる。
日本の陸軍軍人であり軍事思想家である石原莞爾が言うように、
日本とアメリカの衝突は最終戦争であったのだろう。

しかし精神文明は物質文明に圧倒され、あれから78年間は息を潜めていた
状態となった。文明は今、座り心地の良くない椅子に座っているが
蠢きが始まった気配を感じる。文明の意志が起こす本当の最終戦争は
まだ終わっていないことを囁いているようだ。

今になって世界が日本に注目しているのは、人々がこの文明の意志を
無意識で感じ取っているからなのだろう。これから精神文明の巻き返しが
起こるということを察知しているのかもしれない。

文明の意志は人間に影響を与える。これだけ肥大化してしまった物質文明に対し、
精神文明は均衡を取るために動き始める。
そして精神文明は軍事や経済という暴力は使わず、教育というソフトパワーで
世界を和していく。

人間の持つ物質性はAIが代行し、本来の精神性を発現させていく。
そのための教育は完成されているだから。長岡美紀より

これに恩学が加わるとこうなる。
芸術とは
自分の心を開いて人間の欲求を伝える必要から生れるような
芸術でなければ、私は信じない。
文字でも音楽でも、すべての芸術は、人間の心臓の血によって
生み出されなければならない。芸術とは人の心の血なのだ。

名刀のように
すべては出会いの一瞬できまるだから、
その時のために心を磨いておくのだ!名刀のように。
名刀は鋼を何度もハンマーでたたいて作られる。
文化は何度も入れ替わり徐々に変化していく。
文明は科学と共に自然を利用して自然を破壊していく。

岡潔(数学者)
以前の私もそうであった。このような根本的問題に疑問を感じ、
またその解答を得てこそ、真の生命現象がわかるというものである。
無論これは、既に岡以前に仏教が気づいていたことであるが、
その点では「仏教をなめたらいけない!」と岡に一喝されそうである。

ともあれ自然科学は、目に見えるものを精密に調べ、
その結果を順々に積み上げていったのであるが、岡の思考方法は
それとは逆に人には気づかず、また目には見えない未知なるものを、
人類に先駆けてどんどんと掘り下げていったのである。

だから自然科学という学問は、仏教の唯識論でいう第9識、
つまり宇宙に知的法則の中心があるという宗教を仮定しなければ、
本当は成立し得ないのである。だが、自然科学者は少数の例外を除いて、
それに目をふさいでいるのである。

老子の自然学では、無生物であるはずの物質のことを「生」と表現しています。
我々日本人が古来、大自然に対して手を合わせてきた見方と全く同じです。
それがよく現れているのが、日本では万葉の歌であり、芭蕉の俳句なのです。
日本人の人間観や自然観は、21世紀以後の世界をリードする人類にとって
大変貴重なものなのです。

先日岐阜県下呂市金山にある「金山巨石群」にいった。
その時に同行したアーティストが「石は生きていますか」と質問があった。
私は生きていますと即答した。
石の外側を眺めるのではなく石の内側を感じることが大切です。
老子の自然学では、無生物であるはずの物質のことを「生」と表現しています。
だから畏敬の念を持って人々は石にお参りして石に抱きつくのです。

これは東洋人にしか分からない真理で特に日本人は縄文時代から
万物には神が宿っていることを知っていたのです。
文化は自然を壊さずにしてきたが、文明は自然を壊して発展を遂げたのです。

長岡医師が言うように
文明の意志は人間に影響を与える。これだけ肥大化してしまった物質文明に対し、
精神文明は均衡を取るために動き始める。
そして精神文明は軍事や経済という暴力は使わず、教育というソフトパワーで
世界を和していく。

私も同感です。
ここに尽きるかと思います。


分別知




基本、人は「考えれば分かる」と思っています。
そうやって物事を理解するために考えること(知恵)を、
仏教では「分別知」と呼んでいます。
「分別知」の特徴は、物事を分けて、分析することです。
 
人は、赤ちゃんとして生まれてきた当初は、まだ自分と他人の区別もしていません。
それが次第に、自と他の区別を知り、母親を知り、家族を知りというように、
それぞれを区別していくことで世界を知っていきます。
世界をバラバラにすることで認識していくわけです。
この知恵を「分別知」といいます。私たちが普段使っている知恵のことです。
 
しかし、世界は、本来、すべて関係しあっていて、しかも絶え間なく
変化し続けています。その世界のあり方を「縁起」といいます。
そういう世界を、自と他を区別せずありのままに見るのが、
仏の智慧であり、それを「無分別智」と呼びます。

「分別知」によって、「無分別智」を理解することは不可能です。
「分別知」は、自と他を区別し、見るものと見られるものを区別する
二元論的な知ですので、どうしても見る自分が残り、
ありのままの世界を見ることができないからです。
「分別知」が理解しているのは、自分中心に見た世界です。
しかも、私たちはそれをありのままの世界と思いこみ、
知っているつもりになっています。
 
「分別知」の方から「無分別智」を理解することはできませんが、
「無分別智」は「無分別智」の方から「分別知」を突き崩す形で
私たちにありのままの世界を知らしめます。
私たちにありのままの世界を知らせるはたらきを他力といい、
そのはたらきの主を阿弥陀仏と呼んでいます。

だから、「分別知」によって阿弥陀仏を理解しようとしている人相手に、
短時間で理解させるなんて、仏ならともかく、凡人にはできるはずがありません。
それならばできることは、問いを持ってもらうことくらいです。「考えたけど、
分からなかった。いったい何なんだろう?」と。
そうすれば、いつか阿弥陀仏がその人の「分別知」を突き破って
真実を知らせた時に、「ああ、これが他力なのか」と
分かってもらえることでしょう。
※ちなみに、信仰とは、人間が神を信じることですから、二元論です。
だから、無分別智を知らされる信心とは異なります。

○赤子の様な心でなければ天国へ入ることはできない。
これは聖書にあるイエスキリストの言葉です。
仏教では無心とか、諸法は無我等と言われていることです。

○根本知と分別知のバランス良い成長 分別知と根本知のバランス良い成長が
できない場合があります、特に決まり良い子供。父母の言うことを良く聞く、
いわば優秀な子供です。お父さんお母さんが喜ぶから算数の勉強をがんばる。
父母の喜びが自分の喜びであると決めてしまった分別知中心の子供です。
ですから非常に背伸びして、いじらしく演じている訳ですが、
遂に耐えられなくなって不登校になったりします。
これが子供の内だからまだ良いのですが、大人になるまでそういうことが
続いていくと、ついには人格崩壊をきたすようなことが起こります。 

そのような子供は成長過程で自然体験とか直接経験等が極端に不足している
ように思います。山や川へ行けば、自分の思うようになど絶対になりません。
例えば自分が川を堰き止めよう等と思ってもできるものではありません。
まかり間違うと川に流されて大変な危険が生じます。
豊かで変化に富んでいて、どんな科学をもってしても解明し尽くすことはできない
自然界には未知の世界が開かれているのです。 

○根本知と分別知の関係 根本知や分別知がどのようにできるか
お分りいただけたと思います。次にそれらの知恵はどのようにはたらくのでしょう。
まず分別知は「見ようとして見る。聞こうとして聞く。考えようとして考える」
そのようにはたらく知恵だというのです。

例えば、坐禅をしている時に目を開いていますから何時も何かが見えます。
あそこにゴミが落ちている、あれは何だろう等とやっていくと、見ようとして
見ていることになります。それから聞こうとして聞く。
ブーと鳴っているファンの音を聞いて。何が鳴っているのかな?
変な音がするな?このように聞こうとして聞く。  

ところが根本知と言うのは、「見ようとしないでも見てしまっている。
聞こうとしないでも聞いてしまっている。考えようとしないでも考えてしまっている」
知恵です。外でチュンチュン鳴いているのは何だろうと考えなくても、
雀ということが既に分かってしまっているのです。
ブーと鳴っていのはファンの音だなと考えなくても、ファンの音であることは
分かっている。時々止まったとか、鳴り出したとか意識して、
瞬間的に「ようとして」聞くけれどもすぐ忘れて、
いつも聞こえているのですが聞こうとしていない、
それでいながら鳴っている音はファンの音だということを100%知って
しまっているのです。そのようにはたらく知恵を根本知と言います。

私達はいつも根本知を働かせて生活しているといえます。

しかし自分の生活は全て自分で考え、分別して行動していると思い込んで
いますから、おおむね根本知が働いていることさえ知らないのです。
しかも分別心で幾ら考えても根本知を捉えることはできないという関係に
なっているので、私たちは分別心ばかりに囚われ、根本知を動員した
豊かで創造的な生活ができにくくなっているのです。

その結果いろいろの苦しみや争いが起こってくる。
「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位の真人(しんにん)有り。
常に汝等諸人の面門より出入(しゅつにゅう)す。未だ證據(しょうこ)
せざる者は看よ看よ」と臨済禅師が叫んでいらっしゃいます。

くれぐれも「仏や祖師を知りたいと思うならば、決して外へ求めてはならない。
今この目の前でこの説法を聴いているものだ」と実に端的に示されています。
我々は常に悩みや問題の原因を外にしつらえますが、
本来は自分の心の中から生まれて来るものです。
真人とはこの生身の身体に、何の位も無い真実の人がいるという意味です。
こたえは常に心の内にあることを知らなければなりません。

これからも自然と共に謙虚になる事を学びたいと思います。
そうしてこの身体に確かに働いている真人を自覚することです。
真人は誰にも奪われることはありません。

今日も一途に仏の教えを守りながら過ごしてまいります。


老を卑下することはない




「老い」を卑下する必要はない。
古代ローマの哲学者キケローは、著書『老年について』の中で、
老いに対する世間の誤解を見事に退けています。
具体的には「老いは仕事をできなくする」「老いは肉体を弱くする」
「老いは快楽を奪い去る」「老いは死に近づく」といった4つの誤解です。

「老いは仕事をできなくする」というのは、
体力に任せて仕事をするとか、若者らしい柔軟なアイデアで
仕事をするといったように、あくまで若さを前提とした仕事の話です。
しかし、経験や長年培った叡知(えいち)を生かす仕事は、
むしろ老年のほうが向いています

「老いは肉体を弱くする」というのも誤解で、
成熟と捉えることも可能です。
ちなみにキケローは、声に関しては
「老年のほうが、落ち着きがあって良い」と言っています。
「老いは快楽を奪い去る」についても、ほどほどこそが
真の快楽であると捉えれば、老年期こそ快楽を
楽しめるといえるでしょう。

「老いは死に近づく」かどうかは、年齢に関係ありません。
若い人だって常に死と隣り合わせなのですから。
 
このように考えると、老年期だからといって
卑下する必要は全くありません。
ただ、若い頃と同じようにしようとするから、
哀れな結果になるというだけなのです。

老年期の目的は「自分が楽しむこと」でいい!“
それを明確に指摘しているのが、フランスの作家であり
哲学者のボーヴォワールです。
彼女は著書『老い』の中で、老年期を「人生の哀れなパロディーに
してはいけない」と論じています。そしてそのためには、
人生に意義を与えるような目的を追求し続ける必要があると言うのです。

『60代で死ぬ人、80代でも元気な人』。

両者の差は、「レジリエンス(回復力)と免疫力にある」。
私たち人間の身体というのは、病気やケガをしても自ら回復する能力、
いわゆる「レジリエンス(回復力)と免疫力」が備わっています。
その力は適度に身体を動かしたり、脳を使ったり、食事などでしっかりと
栄養を摂ったりすることによって高まっていくのです。

ところが、ここ数年の日本はレジリエンスと免疫力を高めるどころか、
下げる方向に進んでしまった。それが、コロナによる不要不急の外出の自粛です。
高齢者の多くは、重症化のリスクを恐れ、家に閉じこもるようになりました。
毎日の散歩を控え、友人たちとの趣味の活動や、食事会にも行かなくなったのです。
それでは筋力も衰え、脳の刺激も減る一方で食欲もなくなり、
かえって免疫力が落ちてしまった人も多いかもしれません。

1日中、誰とも話さず、テレビの前で過ごすような変化のない
毎日を送れば、心の元気もなくなります。
知らずしらずのうちに、うつ状態に陥ったり、実際にうつ病や認知症を
発症したりする高齢者は増えていると感じます。
世の中の流れに逆らっている人のほうが元気に過ごしています。
私は世の中の流れに逆らってばかリいるのでとても元気です。

最近では病院の外来に来ている患者さんたちの中には、
本人ではなく、家族が薬を取りに来るケースが増えたと聞いています。
理由を聞くと、「コロナを怖がって外に出なくなってしまった」と。
「ちゃんと歩いていますか?」と聞くと、「全然歩いていないのです。
だから、最近よぼよぼしてきてしまいました」いう人が多いのですね。
迷惑をかけたくないという気持ちが逆効果に働いています。

もともと日本人は真面目で控えめですし、
我慢強いところがありますからね。
コロナが医療分類の2類から5類に変わりただの風邪と同様になっても、
未だ電車の中も街ゆく人も大勢の人がマスクを付けているのには驚きます。
マスクの効用と弊害についてもっと知る必要があります。
この真面目さが無気力につながる恐れがあります。

若い世代からは「勝ち逃げだ」と
恵まれた世代のように思われたり、医療費や介護費で
国の財政を圧迫しているかのように言われたり……。
面と向かって言われないまでも、なんとなく社会から
疎まれているように感じている人は多いかもしれません。
だからこそ、社会に迷惑をかけないように、
縮こまって生活する人が増えたのではないかと心配します。

団塊世代の人たちは勉強熱心で努力をいとわない世代という
強いイメージがあります。
さらに学生運動や反戦運動など権力の弾圧に
逆らってきた世代でもありました。
本来、気骨のある人が多い世代ですから、
周りからの同調圧力に負けずに、
もっともっと動き回って声を上げてほしいですね。

そして、誰にでも物わかりのいい老人になろうとするのはやめて、
自分の生きたいように生きてほしいです。
そのほうがよっぽど健康に、元気に過ごせるのではないでしょうか。
夢と遊びには年齢制限はありません。働く場所も自分で作ればよいのです。
自分達の経験したキャリヤとネットワークを使えばなんでもできますよ。

「老人は遊べなくなった、いいえ遊ばなくなったから老人になるのです。」

私が元気な老人の見本となるように心がけています。
オシャレで元気な働く老人です。
常に若者たちに囲まれた頼られる爺さんです。

昨日は南アルプス連峰のふもとで勉強会へ参加しました。
今日も朝から地元の公園でウォーキングです。
私は老いを卑下したことは一度もありません。

皆様も頑張りましょう。


2つの心




皆様は数学者岡潔(おかきよし)をご存じですか?
本日は岡潔の「2つの心」を引用したいと思います。

第1の心のわかり方はことごとく意識を通す。
その内容はすべて言葉で云える。それでこれを「有(う」」という。
これに反して、第2の心のわかり方は、決して意識を通さない。
またその内容は、決して言葉では書けない。だからこれを「無(む)」という。
しかしながら、無が根底にあるから、有が有り得るのである。
東洋人はこれをずっと知っていた。日本人も少なくとも明治までは知っていた。
そしてよくわかる人は、そのことが非常によくわかったのである。

何でもすべて本当に大切な部分は無である。
だから日本本来のよさというのは無である。
ギリシャ人や欧米人は有しか知らない。無のあることを知らない。
戦後すっかりアメリカやソビエトに同調してしまって、
言葉で云えないものはないと思っている。

戦後に生まれた人達には、学校も家庭も社会も、「有」ばかり教えた。
「無」を教えなかった。ところが日本というのは、一口に云えば無である。
だから戦後に生まれた人には、日本というものがわからなくなってしまった。
つまり、日本を知らないのである。それではもはや、
日本人ではないと云ってもよい。
それで世代の断層というものが出来てしまった。

本来無一物(ほんらいむいちもつ)は、禅宗の教義や哲学において
用いられる言葉です。この言葉は、仏教の教えに基づいて、本来的には
何ものも存在しないという意味を持ちます。具体的な物質や概念に執着せず、
心を空にして本来の自然な状態に戻ることを目指す教義です。

この禅語は、私たちが物事に執着し、欲望や妄念に囚われていることを
思い起こさせ、解脱や悟りを求める修行者にとって重要な教えとなっています。
本来無一物の言葉は、深い哲学的意味を持ち、
禅の修行や瞑想において考えることができるテーマです。

だがそれでも日本民族だから、日本人の頭頂葉を持って生まれてきている。
これは健在なようである。だから、何となくそれでいけないものを感じはする。
しかし、言葉で云えるものが大事なものだと思っている。
それが根本的な間違いである。
言葉で云えるものなどに、それほど大事なものはない。

第2の心の世界を「無」と云い、第1の心の世界を「有」と云う。
「真、善、美」はすべてその源を無の世界に発して、有の世界へ流れこんでいる。
有の世界に入って後、言葉で云えるのである。

ここに岡先生独特の「意識を通す」という表現が登場してきました。
これは医学でいっている「意識がなくなる」という意味の
「意識」とは違います。医学で使う「意識」とは大体「いのち」と
同義語ですが、岡がここで使っている「意識」とは心理学で
使っているもので、「意識的」とか「意識に訴える」とかいう意味です。

しかし、日本では江戸時代に随分と経済や文化が発達しましたが、
このようなやり方は「はしたない」「あさましい」として嫌う傾向に
あったのではないでしょうか。このように日本人は概して「意識に訴える」
ということを嫌います。日本文化が西洋人にわかりにくいのは、
この「意識」のとらえ方に違いがあるからではないでしょうか。

「日本民族」という言葉が出てきました。
皆さんは日本の歴史は2000年ぐらいか、長くても縄文の1万年くらいに
思っている人があるかも知れませんが、岡の考えではスケールが大分違っていて、
少なくとも30万年はあるということです。

文献上でそれが岡にわかったのは、中国を代表する思想家である
胡蘭成(こらんせい)と知り合ってからです。
岡にいわせれば中国人と日本人はルーツをたどればもとは
同じだということですが、中国の伝説では正確な文献として
次のように書かれているということです。

「天皇氏時代が12万年、地皇氏時代が9万年、人皇氏時代が7万年、
中国古代の伏犠(ふっき)、神農(しんのう)、黄帝(こうてい)以降が1万年。」

これを全て足すと29万年となりますが、岡は既にそれ以前に、
日本民族の歴史は30万年ぐらいではなかろうかと、
確信を持って想像していたということです。

岡の直観たるや、中国の伝説たるや、人類史の奇跡という外ありませんね。
このようなことは、日本人の誰も知らないのではないかと思います。

「水の中の石」
ところが、日本は終戦後、特にアメリカの真似をして、
そのために深い心というもののあることを全く忘れてしまっている。
それで、みれば非常に憂うべき日本の現状が出てきている。
特に教育の面においてそれがはなはだしい。心がよく働いていない。

浅い心を第1の心、深い心を第2の心ということにしますと、
一切のものは、きれいな小川のせせらぎに石がつかっている、
それに陽が当っている、そうします。
そうすると、水の中の石は非常にきれいに見える。
ところが、取り出して乾かしてみると、極つまらない石です。

人生のこと一切は、この小川のせせらぎにつかっている
石のようなものです。その石が第1の心の内容、その小川のせせらぎが
第2の心の働き。そんなふうなんです。そういうものだということを
今の日本人は全く知らない。だいたいそんなふうです。

「アメリカの真似」という言葉が出てきました。
心の構造からいうと、西洋は概して大脳前頭葉を使う第1の心(自我)の
文明圏ですが、アメリカはその中でも欧州に比べて一段浅い文明なのです。
科学精神の基本である大脳前頭葉よりも、記憶の量と処理速度という
能率や効率を求める大脳側頭葉を重視する文明だからです。

一方、日本は東洋の第2の心の文明圏ですが、西洋の得意とする前頭葉の
発達はまだ大分遅れていて、そのコンプレックスのために西洋の表面的な
真似に終始して、日本本来の第2の心を忘れ去ってきた訳ですが、
20世紀の歴史が示すように、
前頭葉の第1の心だけではいずれ文明は行き詰まります。
人と人、人と自然とが対立した世界観の中で、いくら精密に頭を働かせても
問題が解決するどころか、益々問題が複雑化するばかりですから。

だから本来、第2の心の世界観を持つ日本人が、下手は下手なりに
大脳前頭葉を使って、新しい世界観(政治、経済、学問、芸術)を
創造していかなければならない時点に今はきているのです。

「水の中の石」。我々の日本文明というものは、ここで岡がいうように、
きれいなせせらぎにつかっている美しい石である。
明治以後はこの石を水の中から取り出してカサカサに乾燥させ、
戦後はアメリカによってその石の表面に泥まで塗られて今日に及んだ訳です。
岡は終生、その泥で塗りかためられた石を「本当は美しいんだ、美しいんだ!」
と訴えつづけてきたのです。

私のブログ「恩学」で伝えているのはまさに「水の中の石」です。
今一度日本人の心を清らかな水に戻したいからです。
何もかもアメリカ流のデコラティブにデフォルメされた世界に
警鐘を鳴らしたいのです。もうアメリカに夢は無いのです。


魚の大きさ




「水槽より大きくなった魚はいない」
小さい時に見た夢は直ぐに消えてしまいます。
しかしまた直ぐに次の夢が現れます。
その夢の大きさが水槽の中に収まる魚ということです。
会社を興して事業規模を決めた時に魚の大きさが決まると言います。
SONYの故盛田昭雄会長も「大風呂敷を広げるだけ広げろ。
それが会社の大きさになるのだから」と言っていました。

台湾華僑の友人が教えてくれたこの言葉は強く印象に残っています。
その時に語られたもう一つの言葉も印象に残っています。

共通の台湾の仲間を指して、なぜ私が彼と付き合うか知っていますか?
「彼は捨てられた犬」だからです。従順な割りには、猜疑心が強く、
優しくすると擦り寄り、距離を置くと離れて行く。いわゆる誰も信じられないのです。
だからいつもいろいろな仕事の話を持ってくるが、ほとんどゴミのような価値のない
話ばかりです。石ころやかん缶や木の棒を加えて尻尾を振るのです。
それでもたまには宝石やお札も拾って持ってくるのでそばに置いている。

世界の商人と言われるユダヤ人と華僑の教えは人生に沿った内容なので
とても分かりやすい。人を見る極意が述べられているからである。
どの国でも一瞬にして相手の器量を判断して商売を成立しなければならない。
その教えと訓練が子供の時からなされてきたと言っていました。

ユダヤ人の聖典タルモードにはこのようなことが書かれています。
ユダヤの格言より賢人になる七つの条件(大前提)
・自分より賢い人がいるときは沈黙すること
・人の話の腰を折らないこと。
・答えるときにあわてないこと。
・常に的を射た質問をし、筋道だった答えをすること。
・まずしなければならないことから手を付け、後回しにできるものは最後にすること。
・自分が知らないときはそれを認めること。
・真実を認めること。
当たり前のことですが守るのは難しいですよね。

経営者が会社の行く末を考えた時に会社規模に応じて会社は成り立つ。
当然、事業内容、資金計画、従業員数などで現状を知ることはできるのですが、
代表者が考えている目指す事業規模が分からないと従業員は目標を持てない。
多分労働者は知る必要がないと思っているのだろう。その昔は会社イコール
定年まで働く場所であり社長は小さな国の天皇であった。
誰も逆らうことは出来なかった。

しかし現代のようなデジタル社会ではそれぞれの働き方を尊重しなければ
会社は成り立たないのです。会社に行かなくてもリモートワークで対応する
社員も増えています。日本だけではなく市場がグローバル化されて
海外の社員も増えてきました。国籍イコール思考や価値観が違う集合体になっています。

経営者が専門分野のスペシャリストでリーダーシップが発揮できる会社のみが
注目を集めて投資金も増えてすぐに上場が叶うのです。
共通しているのは会社全体に遊び心が溢れているという事です。
ウェルビーングな考えを取り入れて働き方も働くスタイルも変わりました。
社員は給料よりも職場の快適さを求めるのです。

間違っても水槽ばかり見栄えが良くても中に入れる魚が
大きくならない魚種だったら意味がありません。
失敗しても立ち上がり会社の貢献のために死に物狂いで働く人間が必要である。
会社の業種が時代に通用する業種か、終わりゆく業種か、これから勢いのつく業種か、
その判断を間違えれば大きくならない魚を飼うことになります。

人間の成長もこれに順じて読む本が必要になる。
なぜ青春期に戦国武将の本を読むのか立身出世の物語ほど男性の意気を
もり立てるものはないからである。三国志然り、項羽と劉邦然り、国盗り物語然り、
底辺から上り詰めて国を治めるまでになる物語はやる気を引き出すからです。
中小企業の経営者が読む矢沢永吉の「成り上がり」もその一つかもしれない。

吉田松陰の言葉に「志を立てざるべからず」というのがある。
「道の精なると精ならざると、業の成ると成らざるとは、志の立つと立たざるとに
在るのみ。故に士たる者は其の志を立てざるべからず。其れ志の在る所、気も亦従ふ。
志気の在る所、遠くして至るべかざるなく、難くして為すべからずものなし。」

解説
人としての生き方が正しくすぐれているかそうでないか、また、仕事や勉強などが
うまくいくかいかないかは、心に目指すところがきちんと定まっているかいないか、
つまり志があるか否かによる。だから武士たるものは志を立てないわけにはいかない。
つまり志があればやる気もそれに従うものである。志とやる気があれば、目標が
遠すぎて至らないということはなく、また、難しくてできないということはない。
吉田松陰の研究家川口雅昭氏の著書より引用
私の長年の友人である。

最後に
「40歳までは勝つことを優先し、40歳からは負けないことを優先せよ」
武田信玄
戦国時代の平均寿命が60歳代であった。

現代の様に人生100年時代では
「70歳までは勝つことを優先し、70歳からは負けないことを優先せよ」
が、正しいのでしょう。私は負けないことを優先しています。

魚の大きさは志の大きさです。
さてあなたの大きさはどれぐらいでしょうか?


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